カニをつまむ後先

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「蟹工船」が売れているらしい。

あらすじはこちらまで。

いつ頃読んだか忘れましたが、今になっても背中にぴったり張り付いているような感覚になる、人の事とは思えない。
水辺に石をビュンと投げて、ちょんちょんと石が水を切っていく、その水切りの石のような自己の現状を顧みて、対岸にたどり着けるのか、あるいはそのまま水底に沈むのか、そもそも目的地はあるのか、その不安定と速度感。

思い出したのは、SIGHT誌で連載されている高橋源一郎氏の「世界の中心でなんか、叫ぶ」、2007年秋号の中でのタイトルは、「ジョン・レノン」をひっぱたきたい、である。石川啄木と論座2007年1月号に掲載された赤木智弘氏の評論を取り上げていた。ニート・ワーキングプアについての話。
暴力的にまとめるならば、ひっぱたきたいのである、疎外する世界を。そういう内容です。

さらに、最近みた映画で[ES]というのがある。スタンフォード監獄実験という心理学実験をモチーフにしたドイツの映画。ミルグラム実験、アイヒマン実験とも呼ばれる状況をヘビーにした感じです。

こちらも暴力的にまとめると、権威による命令で、人はひどい事をやってしまうということ。この場合、命じた人が悪いのか、命令に服従した事が悪いのか、どうも分からなくなってしまう。

蟹工船の場合、監督者がひどい仕打ちを労働者に与えるのだが、監督者には果たして責任があるのか?また、著者の小林多喜二は当時の特別警察の拷問によって実際に亡くなっている。このときの特別警察に罪はあるのか?

そのような構造はいったいなんなのか?

では、現状のワーキングプアに追いやる社会における、権威権力はどこにあるのか。ここまで考えると、だれにどこに怒っていいのか、ひっぱたく相手は何なのか。よくわからない。

ただ、いえるのは、組織というものは、人間一人を気にしちゃいないことがおおいということ。その組織の機能として、一人の人間があたかも看守のように振る舞う事もあるし、囚人のように扱われる事もあるということ。そうすると、その組織の舵をきっている人は誰なのか。それを明らかにすると、ひっぱたく相手が見えてくるのかも知れないとおもう。

ま、実際は人それぞれ看守になったり囚人になったり(それ以外になたり)と、役割を切り替えつつ生きているのだろうと思う。その役割の多様性はなにによって生まれるかというと、人付き合いだろうと思う。故に、コミュニケーションをどうとるのか。それが硬直していなければ、よいのだろうと思う。

最終的には、ひとの事なんて分かりゃしねぇと思うのですが、ひっぱたくのはそれからでも、そしてひっぱたかれる前に聞く耳をもつこと。その後先を間違えなければ、万事OKのような気もする。蟹の缶詰でもつまみながら。