写真2.0

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sebasセバスチャン・サルカド氏の写真展にいってきました。

アフリカの写真を集めた展示会で、自然もありつつ、人々の生活とともに紛争もあるというありようが展示されてます。

実際のところ、アフリカには行ったこともないし、写真でみるそれは、どうしても写真としての枠の中でのイメージとしてしかみることができない、というのも正直な感想です。

同時に、「旅 異邦へ」という展示もされており、これは異邦人としての目線による写真であり、ヘー、と思う写真も何枚もありました。

それと写真新世紀の展示もされており、新人写真家の方々の写真が出展されておりました。ただ、グランプリはヌードなんだかなんだかというモノで、がっかりでした。

なんというか、三者三様の展示だったと振り返れば思うのですが、それにしても、写真というメディアの捉え方を全然変えなければならないと考えてしまいました。べつに考えなくてもいいのですが。。。

1. 写真の公平性
写真しかできないこと。それは、その場にカメラがなければならないこと、があげられます。ここで注意しなければならないのは、シャッターを押す人間的な主体は必ずしも必要ではない、ということがあげられます。

例えば、惑星の写真は、シャッターは探査衛星が押していることになり、人間は登場しなくてもよいです。また、セルフタイマーで撮影された写真は、その瞬間をとらえたものではなく、人間的な主体によって撮影しきったとはいいがたいです。

そもそも、写真という化学的、あるいは、電気的な作用においては、シャッターボタンというメカニズムによって光の経路を制御しているにすぎず、画像を残すという行為に対しては、撮影者は必然的に従の立場におかれるのです。

逆に、このことは他の視覚表現手法の中でも、他者との技術的な差異がつきにくく、同じ条件下において、同じ被写体であれば、ほぼ同じようなイメージを誰もが得ることができる可能性が高くなるとも言えます。

2. 公平であるが故の作家性
そこで、でてくるのが作家性です。何を撮りたいのか、なぜ撮るのかという問いをはっしつつ、写真家はイメージを得ようと努力する訳です。特に、この作家性が大事になるのは、被写体との関係性に基づく光のコントロールであるといえます。
ヌードを撮ろうとすれば、そのプロセスが必要になりますし、紛争地域で撮影を行うには、サバイブするための知恵も必要です。

よって、一枚の写真を観るときには、その写真の背後にあるプロセスを想像することが、その作家性を感じる上で大切になるだろう、とおもわれます。

ところが、この作家性は、主観的な観念であり、なかなかその主観性が受け入れられるとは限らない。一方、作家性よりも、その被写体の希少性の方が理解されやすい、つまり写真が表現する視覚的客観性が作家性よりも何倍も鑑賞者にとっては伝達されやすいがために、主観の伝達の前に、記号伝達による理解で終わることがあると思われます。

3. 新しい写真と表現
以上をふまえて、個人的な今後の写真の捉え方として、明確な対象の無い写真があり得るのではないかと考えます。あるいは、意味薄弱な写真かもしれません。
かつては写真を紙にするためには、莫大な環境破壊が必要でしたが、デジカメならば地球環境はそれほど悪化しない。うしろめたくなく、思う存分無意味な写真を撮影することができます。(ただし、デジカメ生産や電気エネルギー生産にかかる物質やCO2排出などを積算すると、シャッター一回切ったときの温室効果ガス排出量は計算できるでしょう。)
このまったくの主観的でかつ意思を持たない写真が写真としてあり得るのではないだろうか、とおもいます。しかもそれはまったく観たことが無いイメージではないかとおもいます。

もうひとつは、フォトグラファーではなくフォトエディターという作家性の誕生の予感です。ググれば、自身が撮影した写真ではないイメージがたくさん引っかかります。それをどのように配置するのか、という手法自体が、作家として成立するのではないだろうか、とおもいます。被写体というリアルな存在との対峙よりも、その移し絵である誰かが撮った写真を編集すること、そのことができる環境があり、かつ、望まれる才能ではないだろうかと想像します。

4. まとめとして
写真ということが、だれもがどこでもかんたんにかつ共有できるような社会になり、その環境のなかでの写真を考えねばならず、写真の特性の考察と今後の表現のあり方について可能性をしめしました。
これらの視点から、何をするかというと、とりあえずデジカメもってぶらぶらしようかなー、と思う次第です。

セバスチャン・サルカド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ

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