jobs追悼と存在

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個人的には、誰かの死を悼むとか誰かの死を喜ぶとか、それが個人的なつながりの範疇を超えている場合、どうなんだろうと思う。たとえば911で10年を迎えた追悼式典では、亡くなった方々のお名前が次々と読み上げられ死を悼むのだけれど、かたや、地球の反対側で行われている戦闘や殺戮に対しての無頓着さに対する落差。世界はバラバラなんじゃないか。

朝、風呂に入ってiPhoneを操作していた。いつものpush通知、France 24からのニュース速報。Steve Jobs is deadの1文の衝撃。いままで速報はほぼ無視していたのにも関わらず。
急いでtwitterを見れば死去の速報、コメントのタイムライン。

驚きとともに、仕事を初めてればJobsの写真の嵐が続く。
ああ、亡くなったのだなぁと、実感をすると。アップルストアにも献花がされていました。

何を実感するとすれば、死亡の一報を、手に握ったiPhoneの、しかも、地域もコトバも違うフランスのニュース速報を地球の裏側の一個人が知るという、なんも関係ない自分に影響を与えるような世界をつくっちゃったんだ、国とか関係ない実業の世界で、という驚き。
ここにいたって、ようやく自分にも人間らしさというものがどういうものかというのが実感されたりするという内省があったり。

で、コレを書いている途中に、友人と電話。マイケルジャクソンもそういう存在だったよね、と話し合い。ああ、バラバラじゃないんだという存在が、世の中には実在し得るということ。

地震は、津波は、原発は、という事も事実でそれ忘れてないよね、というのも、ありつつ、人間ほんとにすごいなと思う一日でした。ただ、その当人たちには、孤独もあったろうと思う。ゴッホにせよガリレオにせよ、偉人として後世に残るというのは、そういう孤独があったからこそ、後世のわれわれが心惹かれ、それがなんだか不思議な人と人とのつながりを育むための結節点として、神が授けた人々なのかもしれないと思わざるをえないのです。

ああ、合掌。


これは、なんだろうすごいありがたいスピーチです。




マイケルの伝説の公演、として知られています。