工房的都市論14 工場とコウバは社会的共通資本になる

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ああ、しばらく書いてませんね、ということで、ぽこぽことネタはあるんですがねと。

IMG_2319.JPG
ファブカフェ 
ネタという事で、ファブカフェとやらにいってきました。といってもカナリ前です。この時はレーザーカッターを使わせてもらいました。

従来、板きれ等をカットする際にはノコギリでガリガリやって、削って、でも精度が出ていなかった、、などとやっていましたが、レーザーカッターは簡単きれい。
精度もコンマ何ミリ以下なので、ちょっとした小細工なら十分!オススメです。

で、このファブカフェに言って思った事。つまり、工房的都市はこうやって始まっているぞ、と連投しているこのタイトルに関する事がなにやら実は現実にあったのねという素直な喜びであります。

さて、ここから小難しい話になっていくんですが、これからの製造業について。生産と消費について考えます。

生産と消費について
昨今、いわゆるモノづくり企業である家電業界がふるわないと報道されています。原因はいろいろあるんでしょうが、大雑把にはモノが売れないのかと思われます。

そうなのかしら、と考えると、世の中のモノがすべて売れていない訳ではなくて、たとえばiPhoneやandroidといったスマートフォンは時代の寵児かよく売れているようです。個人的にも近年入手した電化製品と言えばスマートフォン。
スマホ販売台数 サムスンが世界1位=7~9月期


ところが、それ以外の家電については、特に購買する気にあまりなりません。テレビはちょっと古いので買い替えたいところですが、映るし見たいテレビも無いしなぁ。洗濯機も調子は芳しくないですが動くし。

などと、一通り生活ができているところで、新たに欲しいと思うものは実際あまりないです。個人的には、モノは買わないので、モノは売れてないのかも。 従来は大量に生産して大量に販売する、という工場型の生産モデルに社会が当てはまっていたと考えることができます。

すなわち、ある意味では無個性な製品が必要とされる価値、あるいは、所有したいという欲望によって駆動され生産され販売されてきたと言えます。 が、ひとおとり行き渡ってみると、それほどたくさんのモノがいるんだろうかと。日本ではもうそういったものは必要な分だけあればよくなっています。もちろん、開発途上国なんかでは必要なんですが、わざわざ高コストのモノを買う必要なくて、現地生産で安いものがあればそれでいいのかも。

こうやって考えたところ、飛躍しますが、工場という装置はこれからの都市との関係においては、社会的共通資本となるであろうと考えています。

社会的共通資本だと。。! 
ここでいう工場というのは2つに分けることができます。

一つは、従来のイメージ通りの工場。たとえば、こちらもふるわないですが、ルネサスエレクトロニクスという半導体をつくる会社があります。半導体をつくるには、クリーンルームやら設備投資がかかります。このような設備投資のかかるモノを製造する場合は、まだ今のところ大規模生産がコスト的に見合うように思われます。

もう一つは、工場というよりも、コウバと呼ぶべきところ。これは、要素部品の製造を行うよりも、部品をくみ上げるための場と読んだ方がよいです。これは、でっかい空間が必要だとか膨大な設備投資が必要かというとそうでもないはず。

さて、次に、社会的共通資本についてですが、こちらも大雑把にいうと、交通やライフラインといったインフラの事をさします。特定集団の利益になるのではなく、当事者が意識するしないに関わらず、社会全体に価値を提供しうる資本のことと言えます。資本という以上、なんらかの再生産ができるはずです。

すると、ルネサスの場合、残念な状況ですが、複数の会社が出資してできた会社です。ある意味では、要素部品を安定に共有する装置として、社会的な位置づけの会社であるということができます。 また、コウバでは、これら要素部品を組み立てる場所として存在する事になりますが、必要な人が必要にかられてコウバで作業をするようになるんじゃないかと思います。

そのための技術が現実に追いつき始めています。それは3Dプリンタ。プラスチックのハコなんかを簡単につくってしまえるような装置です。すなわち、部品を集めて最後にまとめるためのモノは、オンデマンドで、個人の意志によって製造することが可能になりつつあると考えています。

このような場所を用意するには、ニーズが無ければならないと同時に、ニーズを尊重し譲り合う場としてコウバを維持する必要が出てくると考えられます。すなわち、社会的な基盤としてのコウバを位置づけることができるのです。

e1.pngで、どうなる 
以上のように考えますと、面白い社会が描けるなぁと個人的には思っています。

古典的な工場というのは、生産手段を持っている資本家のもとで労働者が労働力を提供し、その対価として賃金を得る、というモデルになるわけです。が、資本家の目的とする利殖を勘案すると、コスト削減と効率追求になり、すると労働疎外といった寂しい構図がイメージされてしまいます。

IMG_2317.JPGのサムネール画像
ところが、社会的共通資本としての工場をイメージすると、大規模な工場は、水道設備やゴミ処理、発電設備のように、社会隅々にまで、文明的な暮らしを提供するという理念にもどついた社会的認知のものとなる活動となります。また、コウバでの活動は、そこで活動する個人個人の自由意志に基づいて運営されるのであり、闊達なる創造製作がイメージされます。 利潤追求のための装置としての工場という見方から、社会的なインフラであり、基盤であると認識を変えると、なんだか溌剌とした社会が描けるのではないでしょうか。

ただ、ややもすると、これって社会主義的で全然生産性のあがらない社会になるんじゃねぇかという懸念もあるので、それがどう解消するのか、また、そのような社会が到来したとして、そこで何が重用され価値を生むか、、、それはデザインじゃん、、、というところに考えがいたります。あ!っと思うところで工房的都市論、次回に続きます。


 
というか、これ読んだ方がいいな!