工房的都市論16 芸は国を助ける

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諸般の事情で更新を自粛していたら早くも10ヶ月が経ち。恐ろしいものです。10ヶ月いろいろありましたが、直近のことで、池上永一さんの新作を渋谷TSUTAYAで発見、なんと、ということで早速読了です。

池上さんの作品は、シャングリ・ラというSF小説を読んだのがきっかけ。炭素経済の描写とか土地が持つ力、みたいな若干オカルトじみたところ、また、ぶっ飛んだ登場人物群となかなかのエンタテインメント。その他にも作品ありあますが、テンペストという小説では舞台を末期琉球王朝においた、これまたぶっ飛んだ登場人物群のお話。舞台や映像化もされたらしく、舞台は赤坂で仲間由紀恵さん主演のを見たりしたり。。。ということを過去にも書きましたね

合間にトロイメライを挟みつつ、新作の名は「黙示録 」。黙示録って行っても耶蘇のあれと違うで!って話なんですがタイトルから何やらおどろおどろしいオーラが。
帯から読み取れるのはコンテンツが琉球舞踊、しかも登場人物はどうやら男ばっかり、分厚い、ということでどうしたもんかなぁと思いましたが、読み始めてすぐの怒濤の展開にあっさり陥落。やはり池上さんの小説のぶっ飛んだスピード感は酔います。
そしてまた、なんと言いましょうか、雑草魂に火がつくというか、清々しい読了感です。ぜひオススメ。

さて、下記は読んだ後の所感です。

工房的都市論16 芸は国を助ける

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諸般の事情で更新を自粛していたら早くも10ヶ月が経ち。恐ろしいものです。10ヶ月いろいろありましたが、直近のことで、池上永一さんの新作を渋谷TSUTAYAで発見、なんと、ということで早速読了です。

池上さんの作品は、シャングリ・ラというSF小説を読んだのがきっかけ。炭素経済の描写とか土地が持つ力、みたいな若干オカルトじみたところ、また、ぶっ飛んだ登場人物群となかなかのエンタテインメント。その他にも作品ありあますが、テンペストという小説では舞台を末期琉球王朝においた、これまたぶっ飛んだ登場人物群のお話。舞台や映像化もされたらしく、舞台は赤坂で仲間由紀恵さん主演のを見たりしたり。。。ということを過去にも書きましたね

合間にトロイメライを挟みつつ、新作の名は「黙示録 」。黙示録って行っても耶蘇のあれと違うで!って話なんですがタイトルから何やらおどろおどろしいオーラが。
帯から読み取れるのはコンテンツが琉球舞踊、しかも登場人物はどうやら男ばっかり、分厚い、ということでどうしたもんかなぁと思いましたが、読み始めてすぐの怒濤の展開にあっさり陥落。やはり池上さんの小説のぶっ飛んだスピード感は酔います。
そしてまた、なんと言いましょうか、雑草魂に火がつくというか、清々しい読了感です。ぜひオススメ。

さて、下記は読んだ後の所感です。

工房的都市論15 年について考える都市

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もうそろそろ年が変わろうとしております。本年もお世話になりました。来年もよろしくね、ということでようやくがしがしと書き物を焦ってしておるわけですが。

都市について考えるということで、その対象にある、地方。今年も一応地方である実家に帰ってきました。かたや東京、かたや地方ということで、日本はどうなっていくのだろうかとも考えます。

などと思っていたところ、以前取り上げました、ジェイン・ジェイコブスさんの本が文庫本になっていましたのので、読みましたよと。

以前取り上げたのは、「都市の原理」という本で、こちらは都市の発展過程が、他都市との公益によって、都市の中に置換された産業が起こり、その結果として都市自体がほかの都市と交易が行えるようになる、という考察が行われていました。

これは、都市の発展が農耕から工業へと移行していくのではなかろうかという素朴な発展論とは異なった考え方であり、目から鱗が落ちる思いでありました。

文庫になったのは「発展する地域 衰退する地域/地域が自立するための経済学」。これは、先の都市の原理と裏腹に、都市が衰退するにはどのようなメカニズムが働いているのかというのが考察されています。

手元に本がない、、、ということをふまえてになってしまいますが、理解としては、都市の経済が多分に外部依存をしている場合、この外部要因の変動によって左右されてしまうということがあげられます。

ある独自の産業が都市にある場合、この産業が都市の必要を支える論拠となるのです。が、一方で例えば工場がいきなり誘致されるとか、発電所ができるとか、その都市自体に理由がない産業が据えられた場合の問題です。

落下傘的に落ちてきた雇用であるとか経済基盤は、そもそもその都市や地域が必要とはしていなかったものではありますが、それに付随する金融やサービス、通信などの需要が喚起されるために、都市はあたかも繁栄を見せます。

しかしながら、工場が撤退する、あるいは、発電所の補助金が打ち切られるなどなど、主たる基盤を失った場合、その都市の必要を見つけられないままの場合、衰退する運命にあるというもの。と、理解しています。

これは、地方からみると確かにそのような一面はあり、なるほどと思う訳です。

で、タイトルにもしていますが、工房的都市とはその場合なんなのということなのですが、大規模な工場とかそういう基盤の上に成り立つ都市とはことなり、都市住民が必要であるとおもったり、つくりたいと思うモノやサービスを、その都市のなかのネットワークや資材を活用することで実現し、流通する都市のようなイメージ。そして、それによって財の流通が都市の中で活発に行われるようになるのが望ましいでしょう。

これを実現するためには、たとえば穴をあけるのが得意な工場とか、録音するのがすごいうまいとか、あらゆる革製品を取り扱っているとか、全く規模が期待できない能力を備えている人や法人が存在していることが期待されます。
そんな特徴的な人たちが普通の暮らしを行おうと現在の都市で考えると、ちょっとした難しさもまた否めません。

しかしながら、それが必要である、という状態を作り出すには、やっぱり人と人とがであったり、なんかやろうと思ったり、ある意味では祭りというかフェスティバルのような特別な時間をつくるといった仕掛けを都市にインプリメントするといったことが必要なのではなかろうかと考える次第です。

といったところで、もやもやと考えながら年を越えますが、来年も引き続き都市について考える年にしていきますよっと。

工房的都市論14 工場とコウバは社会的共通資本になる

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ああ、しばらく書いてませんね、ということで、ぽこぽことネタはあるんですがねと。

IMG_2319.JPG
ファブカフェ 
ネタという事で、ファブカフェとやらにいってきました。といってもカナリ前です。この時はレーザーカッターを使わせてもらいました。

従来、板きれ等をカットする際にはノコギリでガリガリやって、削って、でも精度が出ていなかった、、などとやっていましたが、レーザーカッターは簡単きれい。
精度もコンマ何ミリ以下なので、ちょっとした小細工なら十分!オススメです。

で、このファブカフェに言って思った事。つまり、工房的都市はこうやって始まっているぞ、と連投しているこのタイトルに関する事がなにやら実は現実にあったのねという素直な喜びであります。

さて、ここから小難しい話になっていくんですが、これからの製造業について。生産と消費について考えます。

生産と消費について
昨今、いわゆるモノづくり企業である家電業界がふるわないと報道されています。原因はいろいろあるんでしょうが、大雑把にはモノが売れないのかと思われます。

そうなのかしら、と考えると、世の中のモノがすべて売れていない訳ではなくて、たとえばiPhoneやandroidといったスマートフォンは時代の寵児かよく売れているようです。個人的にも近年入手した電化製品と言えばスマートフォン。
スマホ販売台数 サムスンが世界1位=7~9月期


ところが、それ以外の家電については、特に購買する気にあまりなりません。テレビはちょっと古いので買い替えたいところですが、映るし見たいテレビも無いしなぁ。洗濯機も調子は芳しくないですが動くし。

などと、一通り生活ができているところで、新たに欲しいと思うものは実際あまりないです。個人的には、モノは買わないので、モノは売れてないのかも。 従来は大量に生産して大量に販売する、という工場型の生産モデルに社会が当てはまっていたと考えることができます。

すなわち、ある意味では無個性な製品が必要とされる価値、あるいは、所有したいという欲望によって駆動され生産され販売されてきたと言えます。 が、ひとおとり行き渡ってみると、それほどたくさんのモノがいるんだろうかと。日本ではもうそういったものは必要な分だけあればよくなっています。もちろん、開発途上国なんかでは必要なんですが、わざわざ高コストのモノを買う必要なくて、現地生産で安いものがあればそれでいいのかも。

こうやって考えたところ、飛躍しますが、工場という装置はこれからの都市との関係においては、社会的共通資本となるであろうと考えています。

社会的共通資本だと。。! 
ここでいう工場というのは2つに分けることができます。

一つは、従来のイメージ通りの工場。たとえば、こちらもふるわないですが、ルネサスエレクトロニクスという半導体をつくる会社があります。半導体をつくるには、クリーンルームやら設備投資がかかります。このような設備投資のかかるモノを製造する場合は、まだ今のところ大規模生産がコスト的に見合うように思われます。

もう一つは、工場というよりも、コウバと呼ぶべきところ。これは、要素部品の製造を行うよりも、部品をくみ上げるための場と読んだ方がよいです。これは、でっかい空間が必要だとか膨大な設備投資が必要かというとそうでもないはず。

さて、次に、社会的共通資本についてですが、こちらも大雑把にいうと、交通やライフラインといったインフラの事をさします。特定集団の利益になるのではなく、当事者が意識するしないに関わらず、社会全体に価値を提供しうる資本のことと言えます。資本という以上、なんらかの再生産ができるはずです。

すると、ルネサスの場合、残念な状況ですが、複数の会社が出資してできた会社です。ある意味では、要素部品を安定に共有する装置として、社会的な位置づけの会社であるということができます。 また、コウバでは、これら要素部品を組み立てる場所として存在する事になりますが、必要な人が必要にかられてコウバで作業をするようになるんじゃないかと思います。

そのための技術が現実に追いつき始めています。それは3Dプリンタ。プラスチックのハコなんかを簡単につくってしまえるような装置です。すなわち、部品を集めて最後にまとめるためのモノは、オンデマンドで、個人の意志によって製造することが可能になりつつあると考えています。

このような場所を用意するには、ニーズが無ければならないと同時に、ニーズを尊重し譲り合う場としてコウバを維持する必要が出てくると考えられます。すなわち、社会的な基盤としてのコウバを位置づけることができるのです。

e1.pngで、どうなる 
以上のように考えますと、面白い社会が描けるなぁと個人的には思っています。

古典的な工場というのは、生産手段を持っている資本家のもとで労働者が労働力を提供し、その対価として賃金を得る、というモデルになるわけです。が、資本家の目的とする利殖を勘案すると、コスト削減と効率追求になり、すると労働疎外といった寂しい構図がイメージされてしまいます。

IMG_2317.JPGのサムネール画像
ところが、社会的共通資本としての工場をイメージすると、大規模な工場は、水道設備やゴミ処理、発電設備のように、社会隅々にまで、文明的な暮らしを提供するという理念にもどついた社会的認知のものとなる活動となります。また、コウバでの活動は、そこで活動する個人個人の自由意志に基づいて運営されるのであり、闊達なる創造製作がイメージされます。 利潤追求のための装置としての工場という見方から、社会的なインフラであり、基盤であると認識を変えると、なんだか溌剌とした社会が描けるのではないでしょうか。

ただ、ややもすると、これって社会主義的で全然生産性のあがらない社会になるんじゃねぇかという懸念もあるので、それがどう解消するのか、また、そのような社会が到来したとして、そこで何が重用され価値を生むか、、、それはデザインじゃん、、、というところに考えがいたります。あ!っと思うところで工房的都市論、次回に続きます。


 
というか、これ読んだ方がいいな!

工房的都市論13 都市の原理と時間圏

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都市の原理、という本を読みました。写真は、、、関係ないようなあるような。。。

さて、ちゃんと都市理論の本を読んだ事無い気もする、、、ということで目からウロコでございました。(とはいえ、記憶が彼方にいってしまったので、勝手解釈があることはご容赦を)。

目からウロコだったのは、都市は村落の延長で発展してきた、のではない、という考えかた。これは普通の発展のイメージとは全く異なった考え方だから、なんということか!とおもったのですが、これってこれまで考えてきた事とじつは一致している部分もあるぞという妙に得心。それに、そのような都市を考えるにあたって、時間を共有化するということに新しい概念があるんじゃないかと考えるに至りましたよ、と。

まずは、産業や経済発展の過程。都市は地方に伝播し、地方を牽引するようになる、という考え方も示されており、都市と鄙という対立ではなく、それらを包含した上位の概念としてなんらかの位置づけができうると考えることができます。

都市の起こりについてですが、これは本を読んでも結局謎は謎のままなのですが、ローマの記述が興味深い。私の生業でもあるデザインdesignの原意となる言葉が生まれたのも、このローマ時代ということになっております。このローマ、何を産業としていたかというと、装飾品の製作と行っていた、とうことだそうです。というのも、この装飾品も、その他の民族や地域が作成していたモノを模倣するこから始まったそうです。

日本の記述もあるのですが、日本がかつて、自転車というモノを輸入してた。
これは全くの舶来品である訳ですが、高価なものですし、修理をしたいというニーズが起きる。最初は部品だけの輸入だったかもしれません。ところが、賢い修理人は部品だったら内製できるのではないかと、壊れた部品だけをつくって修理するようになる。
そうこうしているうちに、あらゆる部品を製造するようになり、ついには自転車を自力で製造することができるようになる。
そのような過程が、世界各国、そしていろいろな時代で行われていたということが言えます。

模倣から始まる、工房的な感覚がまずは想起できます。

さて、ここで話は進展するのですが、この出来事は、ニーズが無ければできない。なので、まずはこのような産業化は、本質的に「都市」のなかで起きる。なぜならば、「地方」、特に農耕的な集落規模においては、新しいモノがそもそも希薄な上に、自然から搾取をするという根本的な生産形態からは新しいモノを作るという動機付けがそもそも働かない。

生産過程の発展というのは、地方農村と都市との間には隔絶がまずは存在しているということが理解できます。

では、モノやサービスといった産業形態は都市で本質的に都市から発生するといえることがわかった訳ですが、ここから、どのように地方に産業が展開していくのか。この機序について考察も加えられています。

ここでも自転車の例で挙げますが、モノをつくるにあたって、最終生産財はいろいろな部分、部品を組み合わせて作り上げることになりまる。その個別のモノたちは、集積地である都市の近くにあるほうが流通が経済です。

ところが、生産能力が枯渇する、具体的には都市という環境に置ける土地の問題や、工業化による行政の指導等により生産が制限されることで、最終生産財を作り上げることが困難となる。

なので、例えば一部部品の製造を地方に展開する事によって、環境の制約を超える動機付けがはたらきます。まずは、第一段階で地方へ部品製造が展開することが理解できます。

また、地方に都市の生産物が流通することで、自転車の例で挙げたように、模倣するというニーズも発生します。ここで、ある都市が経たような産業の起こりがはじまります。

ある段階にいたると、そもそもの生産を地方に移転する自体が生じます。これは、環境の制約が限界を超えることと、都市での生産が部品の集積の利便性を超えてまでコストがかかる場合が挙げられます。

ここで、一切があたらしい地方に生産の地を移す、という考え方もあるのですが、本書においてはその方法が否定されています。新しい方法を受け入れる土壌がなければ、一時期はうまくいったとしてもそのあとが上手くつづかない。

つまり、都市からの修理や部品生産といった技術移転が行われている必要があること、これは、部品の調達において、地方においても経済的に部品を取得する可能性が高いという蓋然性を担保できます。このような土壌があることによって、地方に産業が移転し、都市化が可能となるといえます。
故に、いきなり工業団地なんかをつくって、産業移転をしても、よっぽど地の利が無い限りはあんまり上手くいかなさそうといえます。

また、大手企業が海外工場をつくったりします。これも、一種の都市機能の地方への移転とも言えます。しかしながら、あんまりちゃんと調べてないですが、一つの生産機能を目的とする産業移転はあんまりうまくいかないような気がします。

たとえば、産業移転という話ではないですが、炭坑など、その周辺に街ができ上がることは往々にしてありますが、そもそも自然から搾取を行うこの産業は、資源が枯渇すれば自然と衰退していきます。これは、その産業を支える周辺の産業が立地場所に発生しづらい、ということが挙げられます。やろうとすると、その資源が枯渇しても、その他の地で使えるであろうモノをつくる等しておかなければならないだろうと考えられます。

以上が、ざっくり本書を読んで理解したことと考えたこと、当然誤読や妄想が混じってますが、おおよそ新しく考えておくべき点は押さえることができたのではなかろうかと考えます。

さて、ココからなのですが、サービスとかはどうなのだろうか?ということ。金融や通信など、お堅いけれど、産業の近くにあると便利な事はさまざまあります。デザインも一緒ですが。
これは、産業の周辺に属するサービスが必要とされる、という都市の成熟を経る事によって、どんどん発生し、そしてそれが本業になる都市が出てくるのかな、、、と考えています。なので、これはどうしてもそれだけ切り離して置くことはできないようにも思われます。

しかしながら、今の世の中は何が違うかというと、実際のモノに紐づかない情報に価値が見いだされているということ。この情報は、デジタル化できるならば流通コストがほとんどかからず、地球上、宇宙すら超えて流通することができます。

なので、飛躍しますが、競争力というのは実は時差というところに置かれるのでは無いかと考えています。たくさんの人が生活している「時間圏」というなかにリアルタイムに何らかのフックができるならば、そのリーチの幅は大きいですし、逆に人が活動していなければ、他のたくさんの人を出し抜くことが可能になるかもしれません。

このように、これからの都市の競争力というのは、環境にひもづく人やモノの流通コストや周辺産業の成熟度とは別に、時間圏という概念によってとらえ直すことが重要なのかもしれません。

何時に何人起きてるか考えるとちょっと楽しくなるかも、とかなり斜め上を行く結論を得ることにいたった都市の原理、オススメです。



工房的都市論Ⅻ 海上都市と都市の終わり

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kaizyoutoshi

菊竹先生の「海上都市」を偶然手に取って読みましたよと。

正直なところ、やはり人造の都市計画は荒唐無稽な印象が拭えませんがちゃんと計画をしている事が理解できます。

海上都市は、1970年代にハワイ大学で検討された、今で言うところのメガフロートの計画。海上としが必要となる社会的問題、技術的問題、経済的問題を検討して実現のための計画と技術的検討をしています。

海上都市が見直されていいと思われる点は、災害対策の面。地震に対しては海の上なので心配が無い。地震に伴う津波についても、津波自体は陸地に近くなるほど波が高くなるので、沖合にいればそれほどでもないはず。以上の災害時の支援拠点としての機能を海上都市の計画で培われたノウハウを活かす事は可能であろうと思われます。

ただ、この手の都市計画で感じるのは箱庭感と言いましょうか、周囲のグレーゾーンの無さ加減でしょうか。計画の段階では、きれいな世界なのですが、実際には影ができるであろうということ。
都市はどのようにできるのか?という謎にもどるんですが、ボトムアップにできている都市であれば、ある意味無秩序に伸びる形態が想定できますし、計画都市であれば、区画にそった都市ができるかもしれない。

海上都市の場合、都市の成長がいわば物理的な人工地盤が限界となる。そして、その地盤が支える重量もその人工地盤の設計値に依存するのではないかと想像できます。

こうなると、都市の新陳代謝というものが起きないんじゃないかとという不安にかられます。ココだけ考えると、なんだか閉塞感のあるちょっとつまらないような印象すら受けます。

が、菊竹先生の面白いところは、このような海上都市が不用になったら沈めちゃえばいいんじゃね?とも考えていたみたいな点。以前取り上げましたが、メタボリズムの未来都市展の図録を読み直すとそう考えていたみたい。

おそらく都市建築には膨大な資材が必要になります。長い時間がかかるかもしれない。地上にある都市ならば、一度都市が形成されると、なかなかその場所から無くなると言う事が想像はできないです。とはいえ、世界中に都市の遺構が残っているので、数百年、数千年レベルで見れば都市の趨勢があります。

これを、ある意味では計画段階で織り込んだものとして、都市の仕舞い方を計画しているとするならば、これはすごいなぁと考えます。為政者が考えるような都市というのは、その都市が未来永劫あるかのごとくの錯覚を覚えるような、そして、市井の人間にとっても当たり前のように思えるようなもの。
それの終わりを考えた設計は、後ろ向きと考えられるかもしれないですが、むしろ新しい考え方なのかも知れません。

工房的都市論としては、モノをつくりやすいとしというものを想定してはいたのですが、都市自体のスクラップアンドビルドもいわば工房的なものなのかもしれないと思われる次第です。

海上都市のような人造の生活環境とは、永劫にある事を保障する地盤ではなく、地盤よりも長い期間地球上に存在するであろう海というフロンティアをとらえた事によってなんだかワクワクしそうな予感を感じた一瞬でした。

K.Kikutake Architects

https://www.kikutake.co.jp/PROJECT2/marinecity/MarineCity.html


工房的都市論Ⅺ 高速首都

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東京をぶらぶらしながら夜の都市構造物を眺めるなどをしています。首都高の高架など、自動車に乗らずに犬の視点から眺めるならば、尋常じゃネェなと思う事しばしば。

ところが、首都高ってどういう経緯でできたのか、どういう財源でどのような施工主がどのような計画でどう実現してきたのか調べて見ようとしても、ちょっと簡単にはわからないぞというので頭を抱えてます。

どこかで本があるのかもしれないけれど、そもそもどういうインデックスが付く情報なのか、いまいち微妙。

都市計画?交通工学?土木?など、いろいろな分野に関わりつつ、財政学、市民活動や地上げといったアンダーグラウンドな事情などなど、ちょっと手強いぞこれはという印象、

高速で進化する都市の高速道路は、いまだ変幻自在であると思う今日このごろです。

工房的都市論Ⅹ 感情の流通および文明と野生の利器

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本を読むなど。「銃・病原菌・鉄」
なぜ地球は多様であるにも関わらず、西欧の人々がアフリカ、南北アメリカ、オーストラリアを席巻することになったのか?それは、銃、病原菌、鉄が要因です、という話です。もちろん、その影響を決定づけたのは、環境であるということ。

銃や鉄という工学的な側面からは、その技術が発展する素地が必要で、それは、農耕の発展によって余剰生産物が生じて社会のなかに専門職を養えるようになったのが原因。
農耕を行うには、農耕を行うに適した作物が必要であるが、その作物も環境に依存して分布しており、農耕生産物が豊でない場合、やはり工業力の発展がなかった、ということです。
これは、まあ納得です。いわば文明の利器。

一方、興味深いのは野生の利器とでもいいますか、病原菌について。北アメリカや南アメリカには、昔からたくさんの人が住んでいたそうですが、ヨーロッパから人が往来するようになった際に、病原菌が蔓延したくさんの人が亡くなった、とのこと。北アメリカでは実に先住民の95%が感染症によって亡くなったとのことです。

この逆に、なぜヨーロッパに壊滅的な病原菌の蔓延が頻発しなかったのか。これも、どうも人口の集中や移動がキーとのこと。人口が増えることによって、多様な人が流入する。すると、様々な病原菌が持ち込まれる訳ですが、その事で、病原菌に対する耐性を持つような遺伝子グループが生存する、そのフィルタリングの機会をたくさん得る事ができた。

そのため、人口が集中せず、また、人の移動も緩慢な地域において、外来の人との接触によって、未知の病原菌にさらされることでクリティカルなダメージを受ける。これが、また、西欧が覇権を握った一つの理由とも言えます。
逆に、ニューギニアなどで欧米人が定着できなかったのは、マラリア等の病気を克服できないからともあり、この原理は先進地域であろうと未開地域であろうと平等な影響があるのだと考えさせられます。病気については、そこまで深く考えてなかったですが、文明発達と伝播に多分に影響していると理解です。

さて、以上をふまえて、和辻哲郎の風土などを思い出す訳ですが、人が集中し得るのは、上記のようにどうやら風土に恵まれるという豊穣がおおよそ大事だと理解されます。

しかしながら、ここまでは先史から近代までの話で、今日における都市は、農業生産に裏打ちされているとは必ずしもない。なぜならば、食料生産は本来都市の周辺の事象でありましたが、地球規模での流通を前に、都市の周辺は地球の裏側に至るまでになりました。故に、食料生産に恵まれた土地は、もはや先進の地域として位置づけることができない。
今日における都市は、都市であることによって、養われる専門職がますます高次な職能を持った人たちなりつつあります。

例えば、芸術。これは先史からありますが、舞踊や歌劇、絵画や音楽といった技能それだけで生活できる場というのは、現代において圧倒的に都市部になります。
例えば、金融。こちらは人間が発明したミラクルな訳ですが、金融それ自体で職業がなりたつ、そして都市生活において生活に直結する職能というのもないのではないかと思います。

面白いのは、芸術は金融がある事によって金銭と作品が兌換され、かといって、作品の価値は貨幣があることによって規定されるという関係にあるということです。
貨幣がなければ、作品の価値は計量できない。実用的な価値とは別の価値を認めても、その価値を表現する術がない。賞賛は価値の表現ではあるけれど、その結果として生活を行うことができない。
この価値に関する感情の流通を金融が支え、そして、そのことが現代の都市における人間の交流と文化文明の発展を担っている側面が垣間見えます。

書きながらになりますが、工房的都市論という論の10回目の投稿で、この発想は個人的にきた!と思うところ。つくることは衝動がスパークとなり、その伝播はそのモノの価値で決定されるかもしれないし、先ほど述べた感情の流通が価値を生むかも知れない。

都市が消費の場所ではなく、この感情の流通によって支えられるような都市になる事。工房的な都市像はそいううものかと。

3000年後にこの手の本のタイトルをつけるとしたら、何が残るのか。案外、メタンハイドレードとか、放射線量とかそういう事になるような気もする。


工房的都市論Ⅸ 新年と初詣という体験創造

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かがり火
あけましておめでとうございます2012。本年もどうぞよろしくお願いいたします!

昨年に引き続き、新年という事で同級生との初詣に参加。お声がけ感謝!並んでお賽銭で紐ひっぱってガラガラして、おみくじひいてお守り更新。すべてが非科学的な行為であるにも関わらずやっちゃうんですね。いつものお守りがなくて、巫女様に同じモノを探してもらうという一幕があったのですが、カワイイかたでトテモ嬉しかったです。神様ありがとう。

さて、初詣って、みんないくよねという習慣になっていますが、なぜ初詣にいくのか?という素朴な疑問をもちましたので、新年早々ググってみますと、こちらなんと工房的都市論に続く歴史があるのではないかという驚きがあったので記してみます。

wikipediaによると、本来は氏神またはその年の恵方の方角の社寺に詣でることがおおかったのですが、明治時代中期以降に、京阪神の電鉄会社が沿線の社寺仏閣を適当に宣伝することで、氏とか恵方とかはまあおいておいて有名なところに詣でることが定着したということなのです。

ははあ、そういうこともあるかもねぇというのが率直な感想。というのも、沿線の開発というのは鉄道会社のビジネスモデルの基本であって、関西なら小林一三の阪急電鉄による田園開拓はうまいことやったなぁという感想。東急も西武もこのモデルを見習っています。

ただし、もう一つ付け加えるならば、単に鉄道会社の宣伝というだけではなく、明治期における人口流入や都市形成という観点も付け加える必要があるかとおもいます。それは、地方からの移住によって地縁が切れてしまった都市住民にとっての宗教的経験の民主化とでもいいましょうか、そのような気分であると思われます。

氏神という概念は地方在住であると濃厚であり、現に私も生地にある登知爲神社というところが主たる詣で先だと思ってます。謂れはよくわかってないんですが、ずっとある。
で、新年早々詣でたのは佐佳枝廼社というところ。こちらは、歴史がはっきりしていて、福井城の鎮守として成立し、松平家のお殿様や徳川家康が祭られているというもの。こちらは名を頂いているので顔出しとこうかな、というご縁です。
後者はどうも明治期以降の風に当てられてはいますが、何やら関係がある、と思う事ができます。

ところが、その土地を離れて転々として暮らしていますと、どうもこのような縁を感じるような社寺仏閣はあまりなくて、どうしようかと思ってしまいます。当時、地方から引越てきたような人たちも同様の感覚を持っていたりしたのではないかと想像します。だからこそ、何らかの縁が感じられるような所が宣伝されることによって、そこに行ってみようと感じたのではないだろうかと考えることもできます。その気分を抽出したとすれば、鉄道会社というのは何とクレバーなマーケティング能力をもっているんだろうと勉強させられます。

さらに穿った考え方で、天皇制の宗教的な経験として初詣が活用され、国民国家ではありながら統治の精神的支柱として宗教を据え付ける事に成功した、というのもあるとの指摘もあるようです。とはいえ素朴な感情からすれば、ご利益を授かる先きや宗教経験を得る場はドコでもよかったのかもしれないとは思います。

以上のように、初詣ひとついくのにそんな事考えてないよという事を新年早々調べてしまった訳ですが、解散後は昨年同様、漫画喫茶で夜明かし。
そこでたまたま読んだ本というのが「チェーザレ 破壊の創造者
」。宗教的権威と政治的権力とが合致していた西洋における覇者の本、日本という国は宗教的権威と政治的権力の分離によって統治を行った類のない国だなぁと改めて考える2012年初頭であります。


 


工房的都市論Ⅷ メタボリズムとぞわぞわする気分

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都市論とかいっていろいろ考えているところに、森美術館でメタボリズムの未来都市展をやっておる、ということでみにいきました。
さて、メタボリズムとは何ぞ、ということなのですが、建築運動としての名称ということだそうです。おなかのアレ的なもんじゃないよと。


"1960年代の日本に、未来の都市像を夢見て新しい思想を生み出した建築家たちがいました。丹下健三に強い影響を受けた、黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦といった建築家たちを中心に展開されたその建築運動の名称は「メタボリズム」。生物学用語で「新陳代謝」を意味します。それは、環境にすばやく適応する生き物のように次々と姿を変えながら増殖していく建築や都市のイメージでした。"

という事だそうです。

このような運動が行われていたとはつゆ知らず、ということで建築には疎い。で、このようなエッセイを書いているわけですが、日本という国において、かつてこれだけの思想的背景をもって建築活動が行われてきた、というのは正直驚きです。というわけで、これをきっかけに近郊の建築を見てみようということで、写真は国立代々木競技場です。

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東京湾を埋め立ててビルを建てて、巨大な都市を作る、といったプロジェクトや、DNAの二重螺旋のような形態の巨大ビルディングなどといった構想は、SFじみていてたいへん興奮するものです。また、メタボリズムグループの作ってきた建築物の意味や背景についても、模型や写真、CGに映像で展覧できてわかりやすい。

たとえば、日本の国の建築というのは柱に意義がある考え方をもつ。そのモチーフを元にした建築設計を行う、ということは、そういう考えがあったのかという関心です。
しかしながら、思想があるということはわかったのですが、はて、その理念なり観念が巨大な建築物となる、というイメージがどうしてもまだ実感を持ってつかめないというのが現状です。
もちろん、メタボリズムグループの提示したプランは壮大すぎて実現しないものが多くて当たり前なんですが、ぞわぞわする気分でいっぱいでもありあす。そのぞわぞわの核心が何かというのは個人的に非常に悩ましい。

まず、ぞわぞわの要因の一つが、完結度の違い。
絵画や音楽は、場合によってかなりの割合を個人の仕事として完成させる事ができます。プロダクトデザインなどは、産業と結びついているために、企業体とむすびつくこで実現できる場合もある。
ところが、建築の場合、莫大な資源を投入したり、いろんな職能の人が手がけなければできない、しかも、ほぼ一品もののようなもので、プロトタイプとして量産するようなものでもないということ。
すなわち、建築物として一般の消費財と比べて寿命がかなり長いために、状況に応じて構想されたり実際に建てられたにも関わらずその経験は一回きりとなることが多いという点が、なんとも忍びない気もします。

もう一つは、建築物の持つ権威性や公共性という、個人所有物とは異なった主体性のなさ。
建築史の本をぱらぱらめくると、日本はまず寺社仏閣、西洋建築は教会ばかり。どうにもこれらの建築物から現代のオフィスビルというものにつながるのはなぜだろうかという疑問です。現代に建築物は、宗教施設が有名かというと、そういうことはなく公共施設だったり、オフィスビルであったりします。

要は、昔の建築は宗教施設ばっかりなのは、その建築物を作るだけの物資と労働力を投入できる権力者だからこそできた事業だったと、当たり前ですが考えることができる訳です。人が住まう以上の機能をもつ施設は、合理的には重要度が高いと思えない。神社はそもそも通常人間がいない。教会は、大きなホールがあったとしても、ミサ等の時に使うだけで日常的には不要。ところが、その建築物を造ってしまう訳です。

それは、人知を超えた存在としての神の存在を感じさせる象徴として機能したという、多分に情緒的な存在であったのだろうと思われます。また、権力者のとってみれば、その神仏の力を威光とする機能もあったとも言えるかもしれません。

で、ココまで考えると、ローマの都市や日本の城郭といった、帝国における市民生活と娯楽、あるいは、防衛・安全確保の機能としての建築物などの議論がその後登場するはず。だけれど、一足飛びに議論をすすめると、近代建築というのは、資本というある意味では得体の知れない神憑った存在、あるいは、国家や自治体といった社会生活上において個人が共同体に権利を付託する存在といったものらが、現代における権力性として建築物を建造する原動力になっているのだな、と考えています。

だから、そこからどんどん発想をアナーキーな方にもっていくならば、近現代の象徴としての建築物だったら、鉄骨でできた仏閣や十字架型をした教会なんてのがあったら面白いのになと思う一方、情報社会においては、人の住まないデータセンターなんてのが、象徴的な建築物になる時代なのかもしれないとも思います。ちなみに、十字架っぽい近代建築は日本にあるんですね、関口教会といいまして、こちらも先日見物にいきました。。。


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一方、メタボリズムのムーブメントのSF的な建築が、重要な示唆を与えつつも、その存在の実現をどうにも透視できないのは、その建築物が持つ象徴が果たしてなんであるのか、また、その施主はだれであるのかハッキリしないものなのかも知れないとおもいます。例えば、ブレードランナーの都市は、混乱をきたした産業複合体が特定地域に集積するという必然性を想定しなければ、あんまり現実味がない。同様に、メタボリズムグループの建築プランは、魅力的ではあれども、誰がじゃあそれ実現するんだろうとか、誰がすんでどのような物語が繰り広げられるんだろうという、コンテンツの想像がいまいち沸いてこない。だからSF的な建築だなと思う訳です。

とはいえ、この展覧会があった六本木ヒルズなんて、自分は何回いっても迷子になるし、巨大な建築物であることはたしか。ああ、こういうものは、現代においは巨大な資本という手によって出来上がるんだなぁという実感も得ることができます。

多分、根気が続けば、メタボリズムグループとアークグラムのなどといういまから40年も50年も昔の建築の思想について比較して、権威性と反権威という構造について。また、これからの震災と人間生活と都市計画、情報都市なんてもの考えたいなと思いつつ、、、四畳半の眠りにつく訳です。